いま蘇る ブリア=サヴァランの美味学 川端晶子

日常茶飯事という言葉があります。《毎日の食事の意から》毎日のありふれた事柄という意味です。生活の中で、食について考えてることは毎日のようにある。「ご飯がおいしい」「しょっぱい」「カロリーが気になる」など。しかし、そこからもう一歩先を考えることはないように思います。何せ、食べているときは「ご飯がおいしい」という気持ちで、それ以外に考える必要はあるでしょうか。ただ舌を満足させながら、テレビを見る。とても日常的な感じ。

いま蘇るブリア=サヴァランの美味学

いま蘇るブリア=サヴァランの美味学

「食べる」ことと人間生活全般、さらに民族の文化・風俗と「食」との切実な関わりを的確に把握し、それを機知に富んだ筆致で表現した1826年初刊のサヴァランの名著を、記憶の深みから引き上げ、多くの引用を交え、新たな視点からその全体像と独自性を浮き彫りにし、現代に蘇らせた解読・解説書。

 

 お気に入りの本の一つです。なかなか値段が高くて手がつけられませんでしたが、アマゾンにて良好な状態で安く手に入れることができました。

この本を読んで少しだけ食生活が変わりました。どうやら睡眠が始まると、感覚は諸器官は少しずつ活動を停止するみたい。第1に味覚、つぎに視覚、嗅覚と続きます。そういえば朝ご飯ってあんまり味わって食べることはないなと思っていたら。なぜか朝のホットコーヒーから「ネスレ・ミロ」になりました。本を読んで変わることもあるんですね(笑)そもそも、「休息・睡眠および夢に及ぼす食生活の影響」について書かれていてユニークなんです。

「《肥満》と《肥満の予防と治療》」の章はおもしろい。この部分を読んで買おうという気持ちになりました。ブリア=サヴァランは肥満を「病気でもない人の身体各部がしだいに体積を増加させて、本来の形態と調和を失うような脂肪の蓄積した状態」と解釈し。自分の腹を不倶戴天の敵として戦いながら色々試していたそうです。

解説「別腹のメカニズム」では、デザートを見ただけでドーパミンが脳内に分泌される(さあ食べようという気持ちになる)が、同時に脳の中枢が興奮しオレキシンが分泌される。そこで胃の緊張が和らげられ、胃が活発になるとあります。いわゆる「食テロ」というやつになりますね。

SNSでは食べ物をアップロードするコミュニケーションが多く。もしかしたら現代の肥満の原因の一つになっているのかもしれませんね。

他にも、感覚や味覚(舌の話)、食欲、乾き、消化、痩せることや、死に至るまでの随想や食欲の快楽について論じられています。ブリア=サヴァランが好奇心を満腹にさせてくれること間違いなしです。

 

新潟大学附属図書館で借りることができます。

バーニー・サンダース自伝

バーニー・サンダース自伝

バーニー・サンダース自伝

2016年のアメリカ大統領選挙ヒラリー・クリントンと接戦をくり広げて注目を集めたバーニー・サンダース。若者の圧倒的な支持をつかんで躍進したことに、世界中が驚いたそうだ。ニュースでちょっと見たかも。

この本は1997年に出版された『アメリカ下院のはぐれもの』を再刊したものだ。

サンダースは「民主的社会主義者」として、アメリカ国民に「政治革命」を呼びかけてる。福祉よりなのでしょうか。1979年から2015年まで、政党に属さず無所属。アメリカで最も長く務めた無所属議員ってなんかすごい。

働く人々や低所得者や中間層ー大多数の人々のために闘うことを明確にし、そうした人々を政治プロセスに巻き込み、大きい運動をつくって政治を変えるという立場だそうです。

アメリカでも、大多数の人は投票に行かなかったり、政治に関心を持てない人は多いみたいだ。なのにサンダースに不思議と惹きこまれた人は少なくなさそう。ソフトでスマートっぽいところが好印象です。

選挙の話はうまくイメージできないところが多々ありましたが、リチャード・シュガーマンというサンダースの友達から、バートリトン市長選挙を立候補するよう勧められるところは面白かったです。彼は、野球の統計分析家で、哲学者で、大学の宗教学者。一体何を考えて勧めたんだろう?

リチャードとサンダースは、バートリトンの選挙の公式結果から分析をはじめる。

市の住民がどんな風に投票したのかを指摘した。リチャードは、もし私たちが地元で全力を注ぎ込めば、市長選挙で勝てるかもしれないと推論した。

「選挙で実際に勝てる。初めての現実的なチャンスであると確信して、無所属で出馬することを決めた」

とはいえ、投票に意味があると思えなければ投票はしない。そんな人がどんな気持ちでサンダースに投票したんだろう。気になるところです。

 

中央図書館で借りました。

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え② 岸本一郎 古賀史健

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 第2章 すべての悩みは「対人関係の悩み」である

アドラー心理学では「対人関係」を大事に考えています。

「個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。他者の影が介在している」

自分のこと「なんか嫌い」って思うときは、人に嫌われるのがヤダなって感じてるからだそうです。

 

「赤面」の話はよく考えてみたいところ。「赤面」は、人がその症状を必要としているとしています。そして、カウンセラーはその症状を治してはいけませんとあります。「赤面」が必要性から出てきたなら、「赤面」を傷のように捉えることは変になると思います。

「赤面」を自分から選択して発生させている。興味深いです。

 

第3章 他者の課題を切り捨てる

「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」

困ってる人がいたとしても、何かをさせる(水を呑ませる)ことはできない。

なんとかしたいという気持ちは「自分の課題」で「相手の課題」ではない。

コンテンツを用意する(馬を水辺に連れていく)ことはできる。でもどこか後者に引っ張られとこがありそう。

「課題の分離を理解して、実践できれば、対人関係は一気に自由になる」とあります。

何かをさせることが難しい場合、コンテンツを増やせばいいのかなと思っていましたが、

「困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておく」という言葉はカウンセリングの知識がないと中々出てこないのかもしれません。

 

4・5章

自由とは何か?書かなくてもいいってことです(キリッ

 

全体的に「こう考えるといいよね」という印象。悩んでるときは、客観的なフロイト心理学よりも「あなたとわたし」から考えうるアドラー心理学が好きという人はいる思います。

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え① 岸本一郎 古賀史健

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

「人は変われる。世界はシンプルである、誰もが幸福になれる」

 ほんとにぃ・・・

「あなたが世界を複雑にしている」

そういう部分はあるかも

「問題は、世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか」

ストレスを感じたときは「世界がどうあるか」で捉えがちかも・・・

「世界を直視することができるか。あなたにその”勇気”があるか」

勇気パワーとは一体なんなのか

 

はじめの導入を読んだときの印象はこんな感じ

読みやすい文章ながらも、自分だったらどうだろうと考え込むことが多かったです。

この本は対話方式で語られています。登場人物である「青年」のテンションが高くて困っちゃいますが、最後まで高いテンションのままでした。

 

第1章「トラウマを否定せよ」

まず、現在のわたし(結果)は、過去の出来事(原因)によって規定されていることに異を唱えています。最初から大胆な感じです。過去のせいばっかりするのは良くないってことでしょうか。アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」(あなたがどうであるか)を考えます。

アドラー心理学ではトラウマを明確に否定しているようです。

「自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する」

トラウマの受動性を否定しているのだと思いました。感情は自分自身で練り上げている部分もあると捉えると少ししっくりくる。

たいして、フロイト的な考えも紹介されています。過去の出来事(原因)ばっかり考えるのは元気でなくない?としている感じ。

でも、もしかしたらフロイトさんに共感できるかアドラーさんに共感できるかは、そのとき気分や状態によるのかもしれません。

 

②へ続く

 

蒙古襲来 服部英雄

長崎県観光連盟がプレイステーションゲーム「Ghost of Tsushima(ゴースト・オブ・ツシマ)」を特集する特設ページを公開している。こちら

鎌倉時代元寇の最初の舞台は対馬

日本史に疎いわたしですが、元寇まとめサイトyoutubeを見たらこれが面白い。

神風だけじゃなかったんですね。興味深々で調べてしまいました。

 

遼(916〜1125)そして金(1115〜1234)に服属してたモンゴル系の諸部族は勢いを増し、チンギス・ハンが高原を統一(現在のロシアとインド中国の間くらい)してモンゴル帝国(1206〜1388)を建てました。そして金を亡します。

チンギス・ハンといえばモンゴルのレジェンドですね。

息子のフビライ・ハンが都を大都(現在の北京)に、国号を元(1271〜1368)と称しました。

世界史的な重要度では、元寇は「日本まで遠征」くらいの話なのかなと思います。西はポーランドまで遠征していますね。

重要なところはやはり中国。金に追いやれて南宋(1127〜1279)が建ってます。

地図的には満洲あたりが金で、その南が南宋です。

 

日本は、南宋と金銀、硫黄などを輸出する関係にありました。硫黄は爆薬の原料になるため、元に取っては、敵国の支援国として考えられますね。

元は、日本に対して朝貢を要求してきました。この要求は高麗(現在の朝鮮)の思惑もあり何回も使節を送るハメになります。

高麗も外交パワー出していきます。立ち回りも大変そう。

日本への手紙は要約すると「俺らビッグだからヨロシクしてくれないとヤヴァイんじゃない?」

それでも、無視し続ける北条時宗

フビライは、日本に侵攻を決めます。

蒙古襲来

蒙古襲来

中央図書館で借りてきました。日本軍の勝利の原因は御家人をはじめとする武士の活躍としています。日本を攻めてきたのは蒙古漢軍と高麗軍をあり、モンゴル人だけではないことも知ることができます。

 

元と南宋の攻防や、高麗の外交なんかを知ることができれば、もっと面白いかも知れませんね。

 

 

 

 

 

 

中動態に世界 意志と責任の考古学 國分功一郎

 読んだ本のことをブログに掲載することで、閉まってある本も少しづつですが消化できていってます。そして図書館で本を借りることも増えましたね。いい傾向。

 

さて、この本は文法の説明がほとんどです。國分さんの著書「暇と退屈の倫理学」は頑張れば読めたのに・・・。大変。

タイトルにある通り「中動態」という聞き慣れない言葉です。はじめて、この言葉に出会ったのは「臨床哲学の知」(木村敏)という本でした。そこには、能動と受動の間には中動態というものがあり、「する」でも「される」でもない「してしまう」かのような中間的なニュアンスとして読み取っていました。例えば、「悔いる」という言葉はどちらでもない中間的な感じがしないでしょうか。

 

最初に、何ごとかをなすことの成立条件はなんだろうと問いかけ、人が意志して行為が発生することの疑問を出しています。

そこから古代ギリシャ語の文法を持ち寄って、受動という枠には入りきらない中動態に注目してゆき、実は、古代ギリシャには「能動態」と「中動態」しかなく、「受動態」は意識されていなかったとします。

受動は中動態が持ちうる意味の一つに過ぎなかったとし、「するかされるか」ではなく「内か外か」。心の内面から考えていきます。

 

意志や責任に囚われることによって、私たちの行為や気持ちを「能動」と「受動」とで分けてしまうところがある。

しかし、それだけでは説明できないことを紹介しながら、逆に「能動」と「中動」において思考することが、私たちの行為や気持ちをもっとクリアに説明できるとしています。

本の中で、カツアゲの例を挙げています。この場合、脅されてお金を渡すのも自発的行為かという面白い話があります。

 

最後の意志批判から自由についての考察はグッときました。

「自分はどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。」

スピノザは本質を具体的に考えた。だから自由になるための道筋も一人一人で異なる具体的なものになる。」

 

 

大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット

大衆の反逆 (岩波文庫)

大衆の反逆 (岩波文庫)

 読めるとこだけ読み終えました。

「大衆」と言われても、なかなかイメージが沸きにくいところがありました。

オルテガの生きた時代は、民主主義が広がり大衆が主役となって政治に参加するようなった時代です。現代の日本でも確かに、民主主義であるし多くの人の選挙によって、政治家が選ばれているのですが、自分には身近な話でなく想像力が沸きませんでした。しかし、オルテガは国家や政治の話だけでなく、大衆は文化、教育、生活などいろいろなところでみられる現象だという。

 

考えてみると、ショッピングモールで買い物をすることやYoutubeの配信を視聴しているとき、多くの人の流れにいるかのような気がしますね。「一般」という言葉とも少し違う。この言葉は、例えるならお米を買うときに「一般的な消費」と言いますが「大衆的な消費」とは言わない。多くの人の生活に根付いたことは「一般」表現されていますね。

 

まず、大衆は多くの人が所々で見られるようになり、それが当たり前なってきているとする。また、いい加減な存在であり個性的でもないともしています。

 「大衆とは(略)自分がみんなと同じだと感じることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」

一方、大衆化していくことで、経済的にも豊かになり盛んな行動が見られるようになったとみている点も面白いところ。

約100年前、ヨーロッパ周辺はグローバルな時代でした。新聞媒体の到来で多くの人が一緒の情報を知り、交通の発達からいろんな場所を横断できるようになった時代でした。今と似ていますね。

 

オルテガは、大衆化することで「かけがえのない自分」に出会うことが難しくなるという指摘をしています。そして、自分という輪郭をつかむことは大事だと判断しています。この本を読んで「大衆化していないにところにいこう!」とオルテガさんに言われている気がしました。

 

こちらの方が読みやすくておすすめです。