中動態に世界 意志と責任の考古学 第1章

9月は図書館が一定期間にコロナの影響で臨時休館になっています

本を借りることが難しい状況ですから、本の読み直しをしていこうと思います

 

・「何ごとかをなす」とは?

「そもそも、何ごとかをなすことができるのか?」という問いから始まります

私たちは、体を動かすにしても複雑に指令を出して手や足を動かすわけではありません

その指令を出す心の意識すら明瞭ではない

「意志」がハッキリとしないことを説明していきます

説明のなかで、「想いに耽る」という言葉出てきました

たとえば、星空を見ながら「想いに耽る」ということがありますが、意志してなされるものではない。星が綺麗とか気温や気分など、さまざまな条件が満たされることで、そのプロセスがスタートします

ここから、能動的とも受動的とも捉えづらいものが示唆されます

 

・「能動と受動の区別」と関わる「責任」

このように考えていくと「私がなにごとをなす」は事態や行為のカテゴリにー収まりきらないように思われます

ここで大事なことは、「だが、にもかかわらず、われわれはこの区別(能動と受動)を使っている。そしてそれを使わざるをえない」とするところにあります

なぜ使わざるをえないのか、そこで「責任」という言葉がキーワードになります

ある人が責任を負うためには、能動的である必要があります。よく事件関連のニュースでは、「計画的犯行」や「故意であったか」、「責任能力があるか」などの言葉をよく耳にします

意志によって行為がなされたとすると、事件の出来事をシンプルでわかりやすく感じられます

どうやら私たちには、何かしらの「責任」が発生する状況では、意志がある。つまり、能動的だと判断したくなる、または判断せずにいられない心の働きがあるようです

 

・文法から考察する

そして、この心の働きはどこから作用するのか、「文法」に焦点を当てて考察していきます

フランスの言語学者によると、能動態と受動態という区別は新しい文法規則で、もともとは能動態と中動態の区別が存在していた

私たちが普段使っている能動と受動の区別というのは、実は文法の慣れに作用しているということなのだろう、きっと

では中動態とは何なのか?

能動態と受動態の中間という印象は正しいのか?

言語の世界からは消えてしまったように思われる。それはなぜか?

中動態と能動態の区別を根底に置く言語は、いったい世界はどのように記述されるのだろうか?