中動態に世界 意志と責任の考古学 國分功一郎

 読んだ本のことをブログに掲載することで、閉まってある本も少しづつですが消化できていってます。そして図書館で本を借りることも増えましたね。いい傾向。

 

さて、この本は文法の説明がほとんどです。國分さんの著書「暇と退屈の倫理学」は頑張れば読めたのに・・・。大変。

タイトルにある通り「中動態」という聞き慣れない言葉です。はじめて、この言葉に出会ったのは「臨床哲学の知」(木村敏)という本でした。そこには、能動と受動の間には中動態というものがあり、「する」でも「される」でもない「してしまう」かのような中間的なニュアンスとして読み取っていました。例えば、「悔いる」という言葉はどちらでもない中間的な感じがしないでしょうか。

 

最初に、何ごとかをなすことの成立条件はなんだろうと問いかけ、人が意志して行為が発生することの疑問を出しています。

そこから古代ギリシャ語の文法を持ち寄って、受動という枠には入りきらない中動態に注目してゆき、実は、古代ギリシャには「能動態」と「中動態」しかなく、「受動態」は意識されていなかったとします。

受動は中動態が持ちうる意味の一つに過ぎなかったとし、「するかされるか」ではなく「内か外か」。心の内面から考えていきます。

 

意志や責任に囚われることによって、私たちの行為や気持ちを「能動」と「受動」とで分けてしまうところがある。

しかし、それだけでは説明できないことを紹介しながら、逆に「能動」と「中動」において思考することが、私たちの行為や気持ちをもっとクリアに説明できるとしています。

本の中で、カツアゲの例を挙げています。この場合、脅されてお金を渡すのも自発的行為かという面白い話があります。

 

最後の意志批判から自由についての考察はグッときました。

「自分はどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。」

スピノザは本質を具体的に考えた。だから自由になるための道筋も一人一人で異なる具体的なものになる。」