中動態に世界 意志と責任の考古学 第2章
第1章では、能動と受動の不正確さ確認しました
しかし、そうでありながらも、その区別を使ってしまうという不便さもありました
そして、これらの厄介な区別は文法によるところがあるのではないか?と問います
文法の話は普段読み慣れない文章になるので、難解に感じる。だけど読んでいこう
・中動態の歴史的立ち位置
驚くことに、もともと受動態よりも中動態が先にあったそうです
それから次第にインド=ヨーロッパ語の主要な舞台から退いていったそうです
古代ギリシア語を調べると受動態が中動態と並ぶように扱われています
中世のストア派の文法によれば、中動態は消極的なものなっています
・長期にわたって文法の標準的教科書だった『テクネー』
このとても古い教科書は言語学者によって異を唱られています
ギリシア語である(エネルゲイヤ/パトス)を(能動/受動)と理解してはならない
「遂行すること」「経験すること」という翻訳が正しいよねと言っています
それはなぜか?
受動である「私は打たれる」は「打たれる」という受動的な意味以外にも、
抽象的な意味合いで「心を打たれた状態にある」や「悼んでいる」とも解釈ができ意味の幅が広い
「パトス」今までの翻訳のされ方である「受動」を「誤読」であるとし、
「パトス」こそ「中動態」を担当している主張です
・単なる誤読ではない
パトスは「誤読」され続けてきたが、歴史的変化には言及していないとしています
言葉が中動態から受動態へ変化していくプロセスがまだはっきりしていません
意味の幅が広い「パトス」を焦点に3章へ続きます