ギリシア史〈1〉を読み解いていく⑨ 30人政権part2

フュレー要塞

アテナイを追い出された人は数千人にのぼり、各地で難民が溢れていた

前403年1月、亡命していた民主派の人々がトラシュブロスを指導者として、難攻の地フュレー要塞を少数で占拠した。フュレーを攻略した兵の中には、後にソクラテスを訴えるアニュトスという人物もいた

また豪雪が降り続いたことによって、アテナイから派遣された大軍を防ぐことができた

フュレーには多数の兵が集結し、さらに勢いをつけることになる

30人政権は、事態を重く見てエレシウスに拠点を移す

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ペイライエウスの攻防

前403年5月、トラシュブロスはフュレーの人々を引き連れてペイライシウスに南下し、ムニキアの丘で迎え撃った

この戦いでクリティアスは討死した

アテナイ市民3000人は30人体制を廃して、各部族から1名ずつ投票によって「10人」を投票によって選出した

一方、ペライエウスには大勢の人々、それに雑多な人間が結集していたとある。彼らは、一緒に戦えば市民と同等の扱いを受けるであろうとの保証を与えられて出撃に加わった

エレシウスに退去した30人政権派は、スパルタ軍に支援要請を出した

リュサンドロス配下のスパルタ軍にペイライシウスを封鎖されると民主派は苦戦を強いられる

結局は、スパルタの王パウサニアスが両者の仲介役をはたした

民主政の回復を条件に和解が成立し、結果的には民主派が勝利した

 

まとめ

クリティアスは民主政権時の反省から「貴族制」を目指していた。確かに「ちゃんとした人」が政治を行うことは真っ当な感じがしないでもない…。だけれども、実際に政権交代して起こったことは内側の分断だった

これからアテナイは、民主政と寡頭政の失敗からどう歩んでいくのでしょうか