教養としての将棋 おとなのための「盤外講座」
中動態に世界 意志と責任の考古学 第2章
第1章では、能動と受動の不正確さ確認しました
しかし、そうでありながらも、その区別を使ってしまうという不便さもありました
そして、これらの厄介な区別は文法によるところがあるのではないか?と問います
文法の話は普段読み慣れない文章になるので、難解に感じる。だけど読んでいこう
・中動態の歴史的立ち位置
驚くことに、もともと受動態よりも中動態が先にあったそうです
それから次第にインド=ヨーロッパ語の主要な舞台から退いていったそうです
古代ギリシア語を調べると受動態が中動態と並ぶように扱われています
中世のストア派の文法によれば、中動態は消極的なものなっています
・長期にわたって文法の標準的教科書だった『テクネー』
このとても古い教科書は言語学者によって異を唱られています
ギリシア語である(エネルゲイヤ/パトス)を(能動/受動)と理解してはならない
「遂行すること」「経験すること」という翻訳が正しいよねと言っています
それはなぜか?
受動である「私は打たれる」は「打たれる」という受動的な意味以外にも、
抽象的な意味合いで「心を打たれた状態にある」や「悼んでいる」とも解釈ができ意味の幅が広い
「パトス」今までの翻訳のされ方である「受動」を「誤読」であるとし、
「パトス」こそ「中動態」を担当している主張です
・単なる誤読ではない
パトスは「誤読」され続けてきたが、歴史的変化には言及していないとしています
言葉が中動態から受動態へ変化していくプロセスがまだはっきりしていません
意味の幅が広い「パトス」を焦点に3章へ続きます
中動態に世界 意志と責任の考古学 第1章
9月は図書館が一定期間にコロナの影響で臨時休館になっています
本を借りることが難しい状況ですから、本の読み直しをしていこうと思います
・「何ごとかをなす」とは?
「そもそも、何ごとかをなすことができるのか?」という問いから始まります
私たちは、体を動かすにしても複雑に指令を出して手や足を動かすわけではありません
その指令を出す心の意識すら明瞭ではない
「意志」がハッキリとしないことを説明していきます
説明のなかで、「想いに耽る」という言葉出てきました
たとえば、星空を見ながら「想いに耽る」ということがありますが、意志してなされるものではない。星が綺麗とか気温や気分など、さまざまな条件が満たされることで、そのプロセスがスタートします
ここから、能動的とも受動的とも捉えづらいものが示唆されます
・「能動と受動の区別」と関わる「責任」
このように考えていくと「私がなにごとをなす」は事態や行為のカテゴリにー収まりきらないように思われます
ここで大事なことは、「だが、にもかかわらず、われわれはこの区別(能動と受動)を使っている。そしてそれを使わざるをえない」とするところにあります
なぜ使わざるをえないのか、そこで「責任」という言葉がキーワードになります
ある人が責任を負うためには、能動的である必要があります。よく事件関連のニュースでは、「計画的犯行」や「故意であったか」、「責任能力があるか」などの言葉をよく耳にします
意志によって行為がなされたとすると、事件の出来事をシンプルでわかりやすく感じられます
どうやら私たちには、何かしらの「責任」が発生する状況では、意志がある。つまり、能動的だと判断したくなる、または判断せずにいられない心の働きがあるようです
・文法から考察する
そして、この心の働きはどこから作用するのか、「文法」に焦点を当てて考察していきます
フランスの言語学者によると、能動態と受動態という区別は新しい文法規則で、もともとは能動態と中動態の区別が存在していた
私たちが普段使っている能動と受動の区別というのは、実は文法の慣れに作用しているということなのだろう、きっと
では中動態とは何なのか?
能動態と受動態の中間という印象は正しいのか?
言語の世界からは消えてしまったように思われる。それはなぜか?
中動態と能動態の区別を根底に置く言語は、いったい世界はどのように記述されるのだろうか?
図説 古代ギリシア、デルフォイの神託
古代ギリシアの歴史をアテナイの出来事に偏ることなく記した本となっています
古代ギリシアの全体像を掴むにはおすすめの一冊です
特に文化史に関する記述は豊富で、神々への信仰が政治や経済、芸術や建築に密接に関係していたことをよく知ることができました
そのなかでも、「デルフォイ神託」について興味を持ったのでまとめてみます
・「デルフォイの神託」
ギリシア中部、パルナッソスの山や坂が急で険しいところにあります
光と音楽の神アポロンの聖域で、ここの神託は絶対に正しいという名声が人々を引き寄せました
この聖域は、世界の中心と考えられていてギリシアでは類まれな国際聖域であった。多くの都市から選出された代表者から運営されていた
当時は、地下から蒸気が出ており、それに触れて巫女はアポロン神の言葉を伝えたという伝承がある
アポロン神殿のそばにある「シュビラの岩」は、巫女たちが神託を告げるのに使われていたされている
また、神託は前8世紀から前6世紀にかけて植民活動と密接な関係があり、神託や命令で植民市建設にとりかかった
神託の言葉によって植民活動が正当化されていたのかなと想像されます
巫女の告げる言葉は記録されて、しばしばきっちりした6歩格詩の1行か2行という形で残っている
ストラポンの『地誌』によれば「話によると…この蒸気を受けて韻文と散文で語る。もっとも、散文の神託も神殿に仕えている詩人たちが韻文にする」とある
「デルフォイの神託は、語りもせず、隠しもせず、徴(しるし)を示す」というヘラクレイトスの言葉もある
おそらく、巫女の短く曖昧な言葉は受け手の想像力を掻き立て感動させた。その感動が何かの徴として体験されたのかなと思います
ヨーロッパの昔話 その形と本質
昔話はいろんな方法で聞き手を「べつな」世界にひきこもうとする
異質な世界からの要求は普通の世界からの要求よりも重要であり、容赦がない
「彼岸者」(死者、地下人、妖精、小人、巨人)などの出会いは、主人公が特殊な状況の中でとくに必要としている忠告を与えてやることができる。それはなぜか?
「彼岸者」は奥行きがなく表面的。それは「他者」や「よそ者」とは違うものだ
また歳を取らず、時間的・精神的奥行きもない
彼らとの出会いは、主人公を孤立させる。離れた存在だからこそ相互関係は深まらず、物語を進める材料として機能するのかなと思います
制度や秩序からも引き離れている「彼岸者」の言葉は、主人公の想像力を駆り立て「べつな」場所への橋かけてくれる
たまに、こてこての西洋ファンタジーを読みたくなるときがある
そんな時は、「彼岸者」に出会いたいのかもしれない